- 第1回 言葉にならないものを映像で伝えたい
- 第2回 シューレ大学が始まった頃
- 第3回 シューレ大学紹介ビデオが転機になった
- 第4回 容赦なく表現したい
- 第5回 映像をつくることは社会とかかわること
- 第6回 人と一緒に生きていきたい
第2回 シューレ大学が始まった頃
現在も在籍している数少ないメンバーの一人です。
今回は、シューレ大学が始まった頃に
石本さんがどんな活動をしていたのかを聞きました。
シューレ大が始まって、講座を立ち上げる
――シューレ大学がはじまった頃はどんなことをやっていたんですか。
最初は、「地域生活文化学」っていう講座を立ち上げてやっていました。シューレ大学が始まる前から、設立準備委員会*1でどんな講座をつくろうかと、話していて、「漫画講座もいいね」*2とか。私は西ヨーロッパとか、ラテンアメリカとか、外国の歴史とか文化のことを知りたいなと思っていました。海外旅行が楽しかった経験とかもあったので。そして、その講座でイギリスのことをやり始めるのね。
でも、漠然とイギリスを知りたいと言っても、範囲が広すぎて、とっつきにくい気がして、自分なりの切り口を作ろうと思ったんです。イギリスといえば紅茶をよく飲む国だっていうイメージがあるから、紅茶文化を通してイギリスのことを知ろうとしました。

イギリスの紅茶&コーヒー博物館の前にて
黒人の歴史を知ると他人ごととは思えない
あと、ブラック・ミュージックが好きだったということもあって、アメリカの黒人音楽についても研究していました。もともと黒人の人はアメリカにはいないわけだけれども、無理矢理に連れてこられて、最初はゴスペルとか宗教の歌を歌っていた。そこからブルースがでてくるとか、そういうのを知っていくことが面白かった。
奴隷解放宣言*3が出されても人種差別が変わらなくて、何をやるにしても白人の人と同じようにはチャンスがない。でも、ある黒人のミュージシャンは自分の歌をたくさんの人に聞いて欲しいと思う。そこで、すごく頑張ってラジオ局にレコードを持っていってかけさせてもらうと、人気が出て、全米ヒットチャートの上位になったりする。ラジオでは肌の色はわからないし、音楽の良し悪しには関係ない。それでだんだん世間に認めてもらえるようになる。
そういう歴史を知っていくと人事とは思えない。マイノリティのこととか、自分が不登校を経験したことと通じるところがある。

石本さんがブラックミュージックについて
シューレ大学のニュースレターに書いたエッセイ
101本の国内外の新旧映画を見る
――それらの活動の中からどのように映像をつくろうと思ったんですか。そのきっかけを伺いたいのですが。
2000年に、シューレ大学で、約1年で101本の映像を見るというプロジェクト*4をやったことがきっかけです。とにかく、たくさんの国内外の新旧の映画を見たいと思っている学生が提案しました。私自身は、それまではたまに映画館で好きな映画を見る程度で、そのように意識的に映画を見るということをしたことがなかった。それで興味を持って、中心的にかかわりました。
それこそ映画を101本見るわけですが、すごく、映画って多様で面白いって思ったんですね。けっこうそれを機会に映画とか、監督、歴史とかについて調べたりするようになって、監督に意識をおいて映画を見るという癖ができた。これは今の自分には大きい。すごく惹かれる映画監督とも出会いました。

101本の映画を観る企画より、アドバイザーの羽仁未央さん
デレク・ジャーマン*5やパゾリーニ*6、キューブリック*7とかを好きになるんですが、特にデレク・ジャーマンの映画を見て、こういう映画だったら、自分にも作れそうだと思いました。デレク・ジャーマンという人は、そのときそのときの彼にとって、面白いことや切実なテーマで映画をとっている人だなと感じるんです。
彼は同性愛者なのだけれども、それがどの映画を見ていても一目瞭然だし、表現も個性があって、ああ、これがデレク・ジャーマンだなとすごくわかる。彼は、自然に個人から出てくる表現ということをしている。このようなやり方で映画を作っているのなら、自分にもできるなと思ったんです。
――それで自分も映画を作りたいということを意識するようになったんですか?
そうですね。デレク・ジャーマンだけじゃなくて、いろんな映画を見たことがすごくよかった。今思うと、101本の映画を見るということは「こういうのじゃないと映画じゃない」という考えに捕らわれないですむという経験だったんじゃないかな。映画の技法っていう面でも、すごく勉強になりました。
<つづきます>
| 設立準備委員会*1 | シューレ大学を設立するにあたって、シューレ大学に入ることを希望する若者や、フリースクール東京シューレの会員やスタッフなどが集まって、喧喧諤諤、どんな大学をつくりたいかを約一年かけて議論したり準備したりした。 |
|---|---|
| 「漫画講座もいいね」*2 | 漫画講座では、漫画の歴史をたどったり、相談して選んだ漫画を読んできてディスカッションをする。講座で漫画についてやる大学はなかなか珍しいと思う。ただ、残念ながら、現在はやっていない。 |
| 奴隷解放宣言*3 | リンカーン大統領が出した、偉大な宣言。この宣言によって、世界人権宣言によって定められた「人間」の幅が「白人の男性」から、「成人の男性」に広がった。どの人も生まれた瞬間から権利を持っている。私たち人間はいつになったら、「自分と違った人」の権利や「他人と違う自分」の権利を当り前に受け入れられるようになるのだろう。 |
| 約1年で101本の映像をみるというプロジェクト*4 | 101本の映画を監督一人に対して一本、「聴覚」「子ども・若者」「ファッション・風俗」「戦争」「視覚」の5つのテーマに分けて一週間かけて20本づつ見て、それぞれの週の最終日にはゲストを呼んでテーマにからんだイベントをする企画。シューレ大学、初めてに近い大きなプロジェクトで、学生数が少なかったこともあり、興味のある人もない人もかかわりまくった。 |
| デレク・ジャーマン*5 | 1942年、イギリス生まれ。20代で画家としてキャリアをスタートし、舞台美術やケン・ラッセルの映画で美術監督を経て、映画を撮り始める。代表作に『BLUE』(90年)など。ゲイであることをオープンにした作風ゆえに、終生英国保守勢力のバッシングと戦いながら独自の立場を貫いた。1994年、エイズのために死去。 |
| ピエル・パオロ・パゾリーニ*6 | 1922年、イタリア生まれ。詩人、小説家、共産主義者、映画監督。ファシストの父に幼い頃から反発を覚え、後の監督作品『アポロンの地獄』(67年)では「オイディプス王の伝説に託して私の人生を語っている」。75年、ローマ郊外オスチアで撲殺死体となって発見されるが、現在でもその死は謎に包まれている。 |
| スタンリー・キューブリック*7 | 1928年、ニューヨーク市ブロンクス生まれ。16歳の時、『ルック』誌にルーズヴェルトの死を扱った写真を買われ、同誌のカメラマンとなる。その後、映画に興味を持ち、数本の短編映画の制作を経て映画監督となる。99年、『アイズ・ワイド・シャット』の完成直後に死去し、遺作となった。 |


